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ACIM -1-


そのようにして(一つ前のブログ)出合った内なる神はすべての人と一体である方であり当然無宗教者でした。ですから、〇〇教とか□□教という言い方に馴染めませんでしたし、〇〇なる中に閉じ込めると自分が閉じ込められたように酸欠状態になってあっぷあっぷしたものです。30代後半に押田神父と出会えたことはとてもラッキーでした。これほど自由な宗教者はめったにいられません。神父ではあられましたが、自分が神父であるのはミサをあげるためだけと公言されてましたし、まことその信条は自由そのものでしたから、その自由さに魅かれ師の修道会には常に他宗教の方々が出入りされていたようです。
そしてまたここにACIMと出会うことができたこととても嬉しく思ってます。ここに書かれた一つ一つを肯うことができます。これまで読書会にも使用し繰り返し繰り返し読んで来た押田神父を始め秋月りょうみん氏の「般若心経の智慧」、増田早苗氏の「日本昔話の霊性」が伝えてることと同じことを言っているのですが、ただ『講座』としての形態をなしてることに特徴があるのでしょう。かつこれら三種の本を含めこれまで自由の世界に出るのにナビゲーターとしての役目を果たしてくれた幾つか本、それらを一つに纏めた結実のようにも感じています。

『講座』(コース)は、社会活動や宗教ではなく、新しい教派でもありません。むしろ一つの思考体系と呼ぶべきでしょう。それぞれの個人が、神に到達するための自分の道を見つけ、その原理を実践していくためのものです。皆さんもご存知のように、『講座』の勉強会が全国の至る所で事前発生的にでき上っていますが、私たちはいつも、権威的な組織として機能する団体を持たないことが非常に重要だと感じてきました。〈略〉ヘレンは、『講座』の中心人物はイエスか聖霊であると感じており、そのように理解されるべきだと思っていました。それは彼女にとって非常に重要なことでした。それ以外のやり方では、教会のような機構を作り上げてしまうことになり、それは『講座』の作者が最も避けたいことだったはずです。 「奇跡講座入門」p40

『講座』のことで一つ忘れてはならないことがあります。それは、このコースは天国へ到達するための唯一の道ではないと、『講座』自体が明確に述べているという点です。「教師のためのマニュアル」が最初の方で、それは何千もある普遍的コースのうちの一つの形態にすぎないと言っています。『講座』はすべての人々のためのものではありません。そうであると考えることは間違っています。すべての人々のなかでもこのコースは確かにかなり重要なものだと思いますが、すべての人々のための道ではありません。このコースが自分に適した道ではない場合には、聖霊が別の道に導いてくれるでしょう。
もしも誰かが『講座』に本当になじめなくて、『講座』と格闘したあと、自分はそれを学べなくて落第したと感じるとしたら、それは間違っています。そのようなことは、『講座』自体が教えようとしていることとは正反対のことです。このコースの目的は、人々に罪悪感を抱かせることではあいません!全くその逆です。しかし、これが自分の道だと感じられる場合は、格闘しながら進んでいくだけの価値があります。 「奇跡講座入門」p35









インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by agatha_no_mori | 2012-05-07 11:32 | Comments(0)

ACIM (A Course In Miracles)


前回少し触れましたACIM(日本語で奇跡講座あるいは奇跡のコースと訳されてる)について「軌跡講座入門」(ケネス・ワプニック著/加藤三代子訳)及びJACIMから引用しつつ少しずつ思ったこと感じたことを日記風に綴って行きたいと思います。

先ずはACIMにおける奇跡の意味を「奇跡講座入門」から転記します。
奇跡について何か話すべきですね。それがこの本の題名なのですから。このコースにおいては、いくつもの単語が普通とは違った意味で使われていますが、「奇跡」もその一つです。「講座」は、「奇跡」をいう言葉を単に「訂正」という意味で使っています。つまり、偽りの知覚を取り消すという意味です。それは知覚における変化であり、赦しであり、また、赦しの手段でもあります。これらの言葉は、概してどれも同じことを意味しています。これは外的なこととは全く関係ありません。外的な事柄を意味して用いられるいわゆる奇跡、たとえば、水の上を歩くとか、病気を癒すといったことは、内なる奇跡の単なる反映にすぎません。奇跡とは内なる変化です。『講座』の中でも特に美しい文言の一つが、奇跡のことを次のように定義しています。「地上におけるもっとも神聖な場所は、往古の憎しみが現在の愛となった場所である」これが奇跡です。誰かに対する憎しみという知覚から、その人を愛をもって見る見方へと突然、移行すること、これが奇跡です。それは知覚の転記であり、自我による見方を聖霊の見方へと訂正することです。(p165-166)


JACIM = JA (日本語) + ACIM (ア・コース・イン・ミラクルズ):
JACIM(ジェイシム)とは、『奇跡講座』を学ぶ人々のために、Foundation for A Course in Miracles (FACIM)からの学習資料を、日本語で提供するサイトです。


額を光が貫いた事件がきっかけで聖書を自ら手に取った小学高学年(その後の体験が強烈だったせいか5年生だったか6年生だったか記憶にないのです)のとき、どういうわけか私は聖書の中で”わたし”とおっしゃる方に会いたいと強く思いました。「生まれ変わらなければわたしの元に来る事はできない」。子ども心にもそれは自我に死ぬことだと解釈しました。そして死ぬことができたのでしょう。”わたし”はこの私の深奥からお応えになりました。それは耳に聞こえるような言葉ではなく、「意」というかインスピレーションというようなものでした。所謂神秘体験関連の本を読むとほとんど自動書記だったりあるいはチャネリングと書いてあったりします。そのどちらでもない私はどう説明していいか分かりませんでした。しかし、下記の記述を読んだ時は驚いたと同時になんだかとても安堵しました。

後年、シャックマンはインタビューで「声は、音声として聞こえたのでもなく、自動書記でもなく、インスピレーションとしかいいようのないもので、私の意識は日常とかわりありませんでした。したがっていわゆるチャネリングではありません。」と答えている。シャックマンはインスピレーションを、言語に変換する作業をしていたのであり、シャックマンがノートに推敲を重ねたことから、自動書記とも異なっている。なおシャックマンによれば、文体の変更や削除などは自ら行っていない。内なる声による細かな推敲の指示が、手書き原稿の随所にメモされている。 by Wikipedia









インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by agatha_no_mori | 2012-05-05 12:25 | Comments(0)

今日の読書便り


第3金曜日は 「般若心経の智慧」 (秋月りょうみん著) 

今日(4月20日)の読書会は『「法灯明」は「自灯明」』(p116~)でした。 

釈尊が亡くなるときに、よく知られていますように、「私はもう死ぬ。もうお前たちの導き手はなくなるが、お前たちは、これからは、法を、ダルマを、灯明とせよ」と言われました。「法」というのは”真理”のことです。だから、これからは「法」を灯明としなさい、と言われたのです。「法」は、すでに述べたように、サンスクリット語は「ダルマで、パーリ語では「ダンマ」です。<中略>ところが、釈尊の遺言はもう一つあって、「法灯明、自灯明」というのです。「自灯明」ということは、「自らを灯明とせよ、自らを帰依処とせよ」ということです。それで先の「法」と言われているものと、今の「自」と言われているものとは一つのものだ、ということですね。釈尊のこの遺言は、結局は、一つのことを言われているのだということです。<中略>「法を帰依処とせよ」というのは、「真実の自己を帰依処とせよ」ということです。その「真実の自己」は、自我がまったく空じられた「無我」のところ、その純粋の「無」(空)のところに露になった自己のことで、とりもなおさず「法」のことです。それを仏教では、「仏陀」とも「本来の自己」とも「無位の真人」ともいうのです。私はそれを、やや思想化して「一息に〈超個の個〉」とも言ったのです。

ここを読んだ時その存在を今月に入って知ったばかりのACIM(A Corse In Miracles)(日本語では「奇跡のコース」あるいは「奇跡講座」と訳れている)のことを思った。言ってることはまさに同じじゃないのって。
出合ってまだ日浅いことでもあるし、さわりだけしか読んでないから少しいい加減な発言になるのは否めないんですけど、少なくとも今のところは私にはしっくりきてます。軽く触れただけでもこれまで私が出合った神が私の体験がそこここに言葉となって表現してあることに驚いてます。

これまで「遠いまなざし」(押田神父著)・「日本昔話の霊性」(増田早苗著)・「般若心経の智慧」(秋月りょうみん著)と3種類の読書会をしてきたのは、言ってることは結局は同じなんだけど表現の仕方言葉の使い方が背景の文化によって違うだけだったので、違った山道からアタックすれば立体的に山を把握できるのではないかと思ったのと、3種あれば入り口としてキリスト教・般若心経・日本昔話からと好みで選ぶこともできますから。。

何か決断をするとき(大げさなものではなくても静かな決意?みたいなものでも)、必ずと言っていいほど新しい出会いが待ってます。この御三方を始め多くの方々の導きで御里への道をたどたどしくも歩いてきたものの一体感には遥かに届かないと実感し、一体への道へ踏み出さなくちゃと思った矢先の今回のACIMと出合いでした。また一つの転機となる出会いのようでわくわくしています。私にとってイエスという存在は正にヘレン・シャックマンの体験したそれだったのですから。つまり私たちと一体である存在。深奥に在って「法」そのものである存在。

注文してた「奇跡講座入門」が昨日届きました。
楽しく読み進めています。

この読書会もいつか始めたいです。



それにしても20日の読書会便りが今日(30日)になってしまいました(汗)











インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by agatha_no_mori | 2012-04-30 14:32 | Comments(0)

ミラーニューロン その1


その方のしぐさをしてみる。実際に身体を使ってしてみても良いし、頭の中でなぞってみても良い。そうするとその方のその時の心境が心情が手に取るように感じられる。ということにいつのことだったか気づいた。

演劇の真髄はここにあるのかと、その時思った。身体を使ってその時の役に人物になりきる。その仕草をすることで、そういう仕草をする人物が乗り移るというとなんだかオカルトめいてくるけど、そうやって人は他者の心をおもんぱかることができるんだと思った。

私たちには知りたくない人分かりたくない人というのがあって、反射的に目を逸らしてしまうものだけど、考えたら実にもったいないことだ。迎えることで私の世界は拡がるのだから。私たちはもともとすべてと繋がっているんだけど、それを拒んでいるのは私たち自身、そう私たちは自ら世界を小さくしているだけなんだ。

その方の話し方や癖を脳内だけでも真似てみる、そうするとその方がどういう心情にあるのかなんとなく分かるようになる。そうなると自分にとってストレスでしかなかったその方の存在が少し違ったものに変化してくるのに気づくのだ。なんらかの事情があってイライラしてるのかなとか、自分の思うとおりにならないからそんな行動にでるのかとかね。またはこうあるべきに囚われての行動なのかとか、魂の拠り所を探りあぐねてのことなのかとかね。そうするとその人がなんだか愛しい存在になったりします。


この一連の動作に名がついていることを内田樹先生のブログを通して知ったのは去年の11月のこと。(もちろん数字に弱いこの私が年月日を覚えてるなんてことはめったにあることではないが、自家製「内田樹ノート」を開きミラーニューロンの文字が躍ってる日付を見たらそうだった。

少々長いですが、引用します。

「他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである。(・・・)ミラーニューロンにより、他人の振る舞いを見ると、自分もそれと同じ振る舞いを仮想的にするのである。ミラーニューロンによって、他人の振る舞いを見るだけで自分の中に仮想的身体運動が起こり、他人の心と同様の状態に自分の心がなり、そうして他人を理解しているのである。」(月本洋、『日本人の脳に主語はいらない』、講談社、2008年、118頁)
例えば、「怒り」という感情は、怒っている人間の表情や声の出し方や身ぶりを模倣することによって内面化し、学習される。
子どもの内面に感情がまずあって、それが身体表現に外化するのではない。
他人の身体表現を模倣し、それが伴う情動が内面化した結果、感情が生まれるのである。
子どもの感情が豊かになる過程を仔細に観察していればわかる。
他人の身体表現の模倣に熟達するにつれて、子どもたちの感情は深まり、多様化する。
感情は他人の外形を模倣することで発生するわけであるから、外形抜きの「純粋感情」などというものは存在しない。 (内田樹ブログ 「感情表現について」)


身体運用の同調はおそらく幼児がもっとも早い時期に興味をもち、かつ訓練されることである。
幼児教育が「おゆうぎと歌」を中心に編成されているのはゆえなきことではない。
同一動作の鏡像的反復は脳内のミラー・ニューロンを活性化させる。
ミラー・ニューロンは「鏡像」との同一化能力を強化し、それはそのまま子どもたちを「主体の基礎づけ」に導く。
初等教育でも、同一動作の反復はあらゆる場面で繰り返される。
これを「心身の権力的統制」とか「馴致」とか口走る人は「主体」の存立を不当前提している。
主体が出てくるのは、ずいぶん後の話である。
まず主体を作り上げなければ話にならない。
とにかくミラー・ニューロンが活性化して、鏡像をおのれと「誤認」するという経験を経由しないと主体は始まらないのである。
中等教育でもだから「標準的な身体運用」が強制される。
他者の身体との同調、共感、感情移入、「鏡像とおのれの混同」を経由してはじめて主体性を司る脳機能が基礎づけられるからである。
個性を消すためではなく、個性が育つ基盤を作るために、「他人と同じ動作」をすることが強制されるのである。
月本洋さんによると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
言い換えるならば、他者との身体的な「同期」が「理解」ということの本質なのである。
子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。
「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(『日本人の脳に主語はいらない』、2008)
思考も感情も私たちは外界から「学習」するのである。
外界を遮断して、自分の内側をじっと覗き込んでいるうちに自生してくるような思考や感情などというものは存在しない。 (内田樹ブログ「階層化する社会について」)



ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの高等動物の脳内で、自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。他人がしている事を見て、我が事のように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられている。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳の活動が観測されている。《攻略》 (ウィキペディア)









インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by agatha_no_mori | 2012-04-11 11:48 | Comments(0)

「りんく link サロン」へのご案内


りんく link サロン(おしゃべり CAFE) が先月スタートしました。

主にがん患者さん・ご家族の方とのおしゃべり時間を共有したとの思いでreyukaさん(3人のお子さんがいらっしゃいます)が立ち上げられました。


主催者reyukaさんからのごあいさつ:
H23年の6月に乳がんになり7月に手術。前摘(右)。リンパにも2つがんがあり抗がん剤を投与。その後、抗がん剤を止めホルモン療法をしています。同じ境遇の方の精神的苦痛を少しでも和らげたくおしゃべりCAFE(りんく・リンク・サロン)を始めました。




開催は今のところ毎月第4金曜日(14:00~15:00)を予定しております。
会費は無料ですが、飲み物を一つご注文くださいませ。

お問い合わせは tonton-reyuka@ezweb.ne.jp または atelier agatha 0983-42-1552










インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン # by agatha_no_mori | 2012-04-06 12:28 | Comments(0)

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